このように、技術という文脈依存性から抜け出そうと足掻いて結局別の文脈を引き入れるという経緯は多くの舞台ジャグリングが辿っている可能性があるのではないか。(細かく検討してない)
舞台芸術の世界では、10年代なんかには文脈を過剰に重ねまくっていくというスタイルが(サブカルと共振しつつ)一定の流行りをみせていたはずで、僕は一応その流れに乗って舞台をやってきたつもりがある。aubeなんかはそのスタイルのポップバージョンだと考え得るかと思う。あと、「まわりみち」も文脈過多は方向性だった。Wesなんかもある意味こちらになるだろうか?ルークウィルソンのYou Tubeでの素振りなんかもこの匂いがある。オタクっぽいってだけか。
記憶やノスタルジーを強調するタイプのジャグリング舞台は、文脈の結節点を「自分の身体感覚」に求めていくということなんじゃないか。物と向き合った時の自分の身体に生まれる文脈としての、記憶あるいはノスタルジー。CwCや、るきさん。
文脈の結節点を「物」だけに求めていくスタイルを突き詰めると、現代演劇に接近する。福井くんやチェルフィッチュ。
サーカスにおける文脈というのを考えようと思うと、なかなか難しい。オリエンタリズム的というか、知らない文化のもの、という覆いが非常にでかい。むしろそれがあるから他の文脈がすべて無かったことにできるともいえる。芸人の身体のみが意味のある文脈だというか。その文脈の見慣れなさこそが、観客にとっては魅力となる。
視覚・聴覚的な美しさというのは、体感的・刹那的なもので、文脈には依存しない。その意味でながめくらしつが一つの正解を追いかけているのではないかと思う。
一方で、「人類」という究極の前提条件まで遡って、後はかなぐり捨てる、という形で文脈離脱をすすめたのが渡邉尚だと捉えることもできるかもしれない。ホワイテストなんかは、まっさらな状態から舞台上でルール(文脈)をつくりあげて遊ぶという作品ではなかったか。