cursurはやっぱりみんな使ってるんですか?
DH(デジタルヒストリー/デジタルヒューマニティーズ)関係で石田健さんが出ているオンラインイベントを聞いている。
https://kemco.keio.ac.jp/all-post/20251021/
山本さんが、最近僕が気になってた本に言及していて、なるほどな、と思った
https://x.com/hiroki_yamamoto/status/1980279232090808606
クイズ業界のはなし
https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20251018
『クイズ思考の解体』とか『君のクイズ』へのクイズ思想的なレベルでの批判がない云々とか言ってる
クイズ『ナナマルサンバツ』の影響がすごいでかいらしい。へえ
この立場は、近代的「知識人」像――社会の外から真理を提示する主体――を相対化し、知を社会の内における媒介的機能として捉え直す試みでもある。知の特権化は、包摂的関係の崩壊ではなく、その偏りと変形として理解されるべきである。AIによって情報と知識へのアクセスが平準化しつつある今日、学問の特権性は急速に薄れつつあるが、知の役割は失われない。むしろ、知をいかに社会に再包摂し、人間的営為として再び機能させるか――この課題を考えるためにこそ、前近代社会における知の構造を歴史的に検討する意義がある。」
ちょい長くして、研究史上の位置づけも盛り込んでもらった
「本研究の立場は、学問や知を社会の外部に位置づけるのではなく、社会の内部で秩序や倫理を支え、共同体の自己理解を可能にする営みとして捉える点にある。知とは社会が自らを維持し、再生産するために不可欠な要素であり、歴史的には常に社会に包摂されて存在してきた。近代以降にみられる学問の制度化と専門化は、この包摂関係の形を変化させたにすぎない。知が「特権的」とされるのは、社会が知に依存する関係が可視化された結果であり、それ自体が知の本質を示すものではない。
この観点は、知を社会的・制度的構造として把握した社会理論(ブルデュー、エリアス)や、文字・出版の歴史的意義を強調したメディア論(グディ、オング)と接点をもつが、両者のいずれとも異なる。ここで重視されるのは、制度化以前の段階において知がいかに社会に組み込まれ、いかに再生産されてきたかという点である。江戸期の儒者のように、官的制度に依存せずとも教育・出版・倫理の実践を通じて社会に知を循環させた事例は、知の包摂的構造を具体的に示す。
ChatGPTと議論をして、こちらの考えを400字にまとめて出力してもらった。
「学問や知は、本来、社会の外から批判や支配を行うためのものではなく、社会の内部で秩序や倫理を支え、人々の生を形づくる営みとして存在してきた。知は社会が自らを理解し維持するための働きであり、もともと社会に包み込まれていた。しかし、近代以降、学問が制度化・専門化されることで社会との結びつきが弱まり、「特権的な知」として扱われるようになった。これは知の本質ではなく、社会との関係の変化の結果である。江戸期の儒者のように、制度的地位を持たずとも社会に必要とされた知のあり方は、知が社会に包摂されていた姿を示している。今日、AIによって知の共有が平準化するなかで、学問の特権性は薄れつつあるが、知の意義は失われない。むしろ、知を再び社会の中に位置づけ直すことこそ、これからの課題である。」
https://huggingface.co/datasets/nvidia/Nemotron-Personas-Japan?row=8
persona hubを日本語に応用するための基盤という理解でよいのかな
その日の仕事が特にない(のに給料が発生している)ことへの不安感がある。これと身体的な緊張感が連動している。
まぁ単純にするべきことを期限までにちゃんとやったかがいまいち不安というのもあるが。