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記号は本来コミュニケーションをなめらかにするためのものなのに、それを多用するとわけわかんなくなって通じにくくなるけど、でもちゃんとほどけば正確に伝わるの、やっぱ最高だな。

「ウル覚え」は誤用のなかでもトップクラスに気持ち悪いな。なにがこんなに気持ち悪いのか。どうしてそんな間違え方をするのか意味不明だからだろうか。

でも要するに
「「『身体』と『道具』の関係を『技術』という観点から把握する」という独特のものの見方、いわば「ジャグリング的思考」を育んできた(p.109)」
という表現が厳密ではなく
「『身体』と『物体』の関係を『技術』という観点から把握する」という独特のものの見方、いわば「ジャグリング的思考」を育んできた」
としたほうが明晰だということかな。

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議論のスタートとしては「身体」と「道具」という言葉を設定せざるを得ないという外的状況のもとで、両者の次元を揃えるために「身体」と同次元の「物体」という語が要請され、「物体」と「道具」の関係の説明が必要になっている。

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本文では
「「『身体』と『道具』の関係を『技術』という観点から把握する」という独特のものの見方、いわば「ジャグリング的思考」を育んできた(p.109)」
が先立って記されている上で、
「「技術」は、「身体」と「道具」をつなげるものです。厳密に言えば、「身体」と「物体」をつなぎ、更に「物体」を「道具」へと変化させるのが、「技術」です(p.113)」
としている。
身体と物体はフラットに並べればよい。いわゆるジャグリングについての表現としては「身体」と「道具」と言われがちなので、p.109はそう記しているが、厳密にいうならズレているという感じ。
「道具」という抽象化は基本的には不要で余分に思う。が、具体的にジャグリングの文化や歴史を考える上ではどうしても必要になる。
抽象化すべき重要論点は現象→技術だけ。

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というような話をトム論とした。

トム論は、
・作品は作家によってつくられるものではなく、作家が制作に巻き込まれてできあがるものである(ひいては「作品」など存在せず、あるのは関係の束だけである)
・作品はどう考えても実在しており、その実在について形而上学的に考察したい。「作品が無い」などということが哲学的にあり得るのか
という二つの考えに(一人が)分裂しており、大変らしい

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あまりにも個性的で抽象不可能な「わざ」はここでは技術ではない

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ここでいう技術とは、人と物、人と人の関係のあり方についての、言語に依存しない(言語化されていることもある)抽象のこと

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あらゆるジャンルは技術の体系によって成立しており、
あるジャンルの作品は、そのジャンル特有の技術の束によって形成されている

fukuoka-u.repo.nii.ac.jp/recor
ナチズムとフレーベル主義幼稚園 : 絵本・児童書にみられる反ユダヤ主義を中心に
勝山, 吉章
tion 福岡大学人文論叢
en : Fukuoka University Review of Literature & Humanities
巻 56, 号 3, p. 901-930, 発行日 2024-12

なんか改めて北出栞を読むべきな感じもある

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じんとかにじさんじとかはエモいのだけど、自分たちの過去をそういうエンタメとして消費するのが上手すぎてちょっと良くない感じがある。
再始動したキズナアイはなんか淡々としてて良かった。動員してこない。コメントは勝手に動員されてたが。

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後でぐだぐだ書いている部分はうまく書けていないが、「凡庸さを磨く」っていうのがなにかしらを言い当ててている感触がある。わかりきってない。

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人文や歴史と、文脈重ね合わせエモエンタメとは違うんだってことを理解してもらうのが今後はむしろ大事な気がする。
これを混同して歴史おもろいとかやるのはきっと致命的によくない

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ジャグリング丼

ジャグリングに興味ある人が集まって、わちゃわちゃできたらいいなって思って。