いまさらボカロにはまりそう。
これめちゃいいな
https://www.youtube.com/watch?v=pdzWlZVexvQ
人の歌声を聞きたくないけど、「歌」を聞きたい、みたいな欲求とボカロは完全に合致する。
ボーカロイドというものに今まで出会ってなかったんだなぁと実感している。初音ミクはあくまで楽器で、楽器だけど何かしらを感じてしまうというそういうことだったのか。
ニコニコでのキャラとしての流通から入りすぎててわかっていなかった。
人の顔を見たくないけど、人を見たい、表情を見たいみたいな欲求に応えるコンテンツがVtuberなんだと思っていて、
そういう意味では
歌声のない歌=ボーカロイド
顔のない表情=Vtuber
身体のないダンス=MMD・3DCGダンス
みたいなところがあって、どれもちゃんと連続的だと思うし、VtuberブームはVの本質を見失っているみたいな批判は完全に的外れだと思っている。
そしてどれも欲望する気持ちが最近よくわかるように思う。
明らかなフィルターを通さずに情報を削るというそぶりが嫌いなのかもしれない。
映画も演劇も写真もどう考えたって現実そのものがむき出しだと思うし、それをそのまま解釈したり楽しんだりするということはある種暴力的な感じがする。
文字なり絵なりのフィルターを通す方が表現として洗練されていると思う。別に洗練されているのがいいわけではないが。
この点で、声・歌声というコンテンツは今ほぼ生のままでしか流通していなくて、それがフィルターを獲得しつつあるというのはやはりひとつの革命なんじゃないかなあ。
一方で、ラジオとかの音質が悪い時代にはそれはそれで強めのフィルターがあったんだと思う。
生の声を歌にのせてしまうというのはある種のフィルターではある。
同じ様に、身体なり動作なりを脚本や演出にのせてしまうというフィルターがあるのもわからなくはない。
フィルターにのせてもなお残る生の味みたいなものを好むのは非常にわかる。そういう意味では不完全なフィルターこそが美しさの条件なのか。
結局のところ
野蛮と洗練の往復こそが文化