躊躇のない激論を交わせることと、学者が集団化していないことに関係があるはず。
知識人は周縁的な存在であるとの話はそういうことと関係があるのだろうか
学校ができて、公共的で水平な議論ができるようになったみたいな議論(前田勉)があるが、全く間違っているのではないか。滝沢馬琴と本居宣長が激論を交わせたのは、生業の存続にその激論が関係ないものだったからではないか。山崎闇斎門下生がよく破門したりされたりするのも、学者集団が機能していないからでないのか。
ジャグリングに興味ある人が集まって、わちゃわちゃできたらいいなって思って。
知識人は周縁的な存在であるとの話はそういうことと関係があるのだろうか