議論相手としてはかなり良いかも。
こちらにある程度の考えがあった上でのことではあるが。
この立場は、近代的「知識人」像――社会の外から真理を提示する主体――を相対化し、知を社会の内における媒介的機能として捉え直す試みでもある。知の特権化は、包摂的関係の崩壊ではなく、その偏りと変形として理解されるべきである。AIによって情報と知識へのアクセスが平準化しつつある今日、学問の特権性は急速に薄れつつあるが、知の役割は失われない。むしろ、知をいかに社会に再包摂し、人間的営為として再び機能させるか――この課題を考えるためにこそ、前近代社会における知の構造を歴史的に検討する意義がある。」
ちょい長くして、研究史上の位置づけも盛り込んでもらった
「本研究の立場は、学問や知を社会の外部に位置づけるのではなく、社会の内部で秩序や倫理を支え、共同体の自己理解を可能にする営みとして捉える点にある。知とは社会が自らを維持し、再生産するために不可欠な要素であり、歴史的には常に社会に包摂されて存在してきた。近代以降にみられる学問の制度化と専門化は、この包摂関係の形を変化させたにすぎない。知が「特権的」とされるのは、社会が知に依存する関係が可視化された結果であり、それ自体が知の本質を示すものではない。
この観点は、知を社会的・制度的構造として把握した社会理論(ブルデュー、エリアス)や、文字・出版の歴史的意義を強調したメディア論(グディ、オング)と接点をもつが、両者のいずれとも異なる。ここで重視されるのは、制度化以前の段階において知がいかに社会に組み込まれ、いかに再生産されてきたかという点である。江戸期の儒者のように、官的制度に依存せずとも教育・出版・倫理の実践を通じて社会に知を循環させた事例は、知の包摂的構造を具体的に示す。