もやみん
雑談、集まる、といったものは、どのようにして生まれるのだろうか
体育館という場所という機能、あるいは会社という場所という機能でさえ、まだオンラインで完全に再現できてない(あるいは、再現しないにしても、十分代替できる機能が存在しない?)ということなんだろうか
とにもかくにも、動画でスッとなんかとって体育館で見せ合ってたようなことをすべきで、机とカメラと配信環境を整えると良い気がするそんでdiscordあたりで「暇な人きて」的に来てもらうと良さそう
ぜんぜん3Dプリンタとかも動かせてなくて、ジャグリング的おもしろコンテンツの開発も進んでないし、ちゃんとやっていくかと計画を練っているが、部屋が狭いというボトルネックが結構つらい
つみきねてぃっく的なものを部屋でできないかと考えてるが、どうにも部屋が狭くて難しい二段ベッドでも作るか
リモートワークでプログラミングに集中しながら、多くても数人レベルで動画ごしだけのコミュニケーションでシンプルな関係性で仕事が進められるのは本当にギリギリ時代が追いついてよかった
コロナ前からそうではあったのだが、コロナによって助けられてるという反社会的人種なのかもしれん
これ見て思い出したが、俺はかなり電話取次ぎと人間関係の構築が嫌だというのを思い出した
熱が出て頭がいたい
2回目ワクチンdoneもう腕が重い
VR技術、VRChatみたいなオンライン対面にメインストリームの熱が消費されてるのはもったいないと持っている
ゲームはどんどん発達してると思うが開発が大変という印象(開発機がハイスペック、クロスプラットフォーム、Unity側、人材、…)
道具拡張としてのVRはまだまだ民主化されてないのがもったいない
いまノードベースプログラミングの環境づくりが面白くてとてもこの話をしたいが、相手がいない
合理的、論理的ではあるが適切に適当で、自分の楽しみのためによしなに人生の時間を投げているような感じがする。でもそれって人生のすべてじゃないですか?
山下泰平氏のものの考え方というかスタンスのようなものが妙に自分に親しいように思えるのはなぜなのか。宮本が本当に近いのか、それとも皆に沿う感じさせるような特殊な文章なのだろうか。
普段のツイートが老後の爺か?という気になってきたので、人生を鋭くしよう、という気持ちになったが、俺はこれをやっているぞ!という軸がないと柄がないナイフのようでしようがないように思う。かつてはジャグリングがそれだったが今はなくて、プログラミング周りでやったったるぞという気持ちになっている
クラウドサービス側もやっと勉強進んできたのでインターネットアプリで一発当てたくなってくるね
そういう背景を考えると、想像力を維持して希望を持ってじぶんのやりたいことをやることは、この暴走した社会(おもにたくさん労働をしないといけないといった点で)に対するワクチンなわけよ(は?)
縮退ってのはようするに多様性の減衰、エントロピー増大のようなもので、社会を回す機能が一部の少ないモジュール間で完結してしまい、この渦から出たものが金が回らず消滅することを指してる。
エントロピー増大のように、これは不可逆な変化といっている
現代経済学の本、最後の章で、文明の縮退という概念を導入して、縮退を脱する方法はまだわかってないけど想像力がキーだよねという話になった
経済の仕組みで人類の短期的な欲望がスピーディに達成されるので、長期的な希望を持つ余裕がなくなっているたしかになあと思うし、近頃のいかがわしいオンラインサロンとかも、この想像力を短期的な欲望として達成させるものだしそして長期的な欲望を達成するにはどうすればいいのかというのが個人的には常に悩んでいるので、せやなあという気持ちになった
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良い読者であることは難しいんよな
感想を言うこと自体は決して悪ではないが、現代は過剰であるようにも見えるし、一方で商業的には感想によるSNS露出は要だし
見えなくなるからって、沈黙は金なわけでもない
良い読者でありたい、という気持ちは本当にあるけど、良い読者でありたいって発言を公開するとそこから一歩離れてしまう気がするんだよな
ジャグリングに興味ある人が集まって、わちゃわちゃできたらいいなって思って。