@mimizu123
企画
無料で気軽な感じだし場所もスタジオでちょうどいいので、いろんなバックボーンの人が集まってやりたい。
出演者も見るひとも。ジャグリング知らない人とか。雑にいえば、群れることでどんなジャグリングができるかみたいな。
ある程度、コアが集まったらTwitterで募集するか。
素朴に、といったのは構造として単純にするためで、上記のはかなり触覚的に見ている時。
実際は、視覚的な、意味のネットワークも生じているわけで。雑に言えば、モノボケみたいなことなんだけど。
そういう重層的なネットワークの中での濃淡を味わうみたいな見方ありますよねっていう話。
俳句とジャグリング
ジャグリングのシークエンスを素朴に俳句のように味わうことがある。例えば、素朴に「布団」ときたら「枕」は想像できて、「みかん」はちょっとずれてるみたいな感覚。そういう、日本語の意味のネットワークにおける単語の近さや遠さを絶妙に一方向的に配置したものとして捉える。
ジャグリングも同様で、からだのまわりに物を配置していく場合に、これは自然だとか、ずれているみたいな感覚がある。
例えば、この感じで右手で背中の後ろからボールを投げたら、それは左手でとるんじゃなくて、左手でとるでしょうみたいな感覚。
その近さは、雑に言えば、物と人が織りなす力のネットワークみたいなもので、科学風にいえば、重力とか物が駆動する遠心力とかそういうものの複合の濃度なんだろうけども。
言葉にしなくても、見るだけで、その絶妙な濃淡が味わえるのはやっぱいいよね。しぶいなっていっちゃうよな。
京都公演、楽しみだなぁー。
木か金だなー。
interior2020 | 福井裕孝 https://www.fukuihirotaka.com/interior2020
@mimizu123 そこを避けると密な甘いものという制限しか残らなくなる。
新しい関係を構築するうえで生じざるを得ない暴力に近いもの。それをすかすのではなく、うけいれ、乗り越える術を考え、実践していきたい。
ジャグリングの暴力性をなんとか乗り越えたい。
例えば、工芸品の箸を魅力的に見せるためにジャグリング、ジャグリング的手法を使うとして。
ジャグリングは既存の物の扱い方を一旦無にして、その形に直接向き合うことができるが、だからこそ、既存の価値観とぶつかりやすい。ぶつかることが問題というか、そちらに印象がとられすぎて、魅力を発見しづらくなってしまう。例えば、箸を足で使うとか。
物を魅力的にみせるっていうシンプルな方法が確立すればジャグリングは一気に広がる。
お笑いは暴力性を突破している。
例えば漫才はシンプルに人を叩いたり、否定をすることを通して、人、あるいは人と人の関係を魅力的に魅せる。
もちろん、漫才での暴力は抜け殻のようなもので、舞台上だけの虚構である。
その虚構性を成り立たせているのが舞台だったり、テレビというメディアや場であろうか。
ただ、物と人の関係をみるジャグリングでその虚構は成立するのだろうか?
例えば、本を破ることご舞台上で行われていたとしてその暴力性がノイズにならないであろうか?
たぶんそこを経由しないと人を傷つけない笑い、物をつけないジャグリングは成立しない。
エビのような、とにかく下手なバスケットボール選手
降格塁
#帰ってこない
Juggling Unit ピントクル代表。京都でジャグリングのオムニバス公演「秘密基地」を運営したり、作品をつくったりするひとです。