今の世の中は、環境をうまいこと設定することで、こういう集団もうまいことコントロールできるのではないか、そこで暮らすのが結局幸せではないかという思想(設計主義?)が強い。
僕もその考えにはかなり長く浸かっているし、それで良いような気もしているが、どうなんだろう。資本主義の是非をこの深度で問う必要がある。
これが僕にとっての社会学であり政治学であり歴史学であり運動なんだろうなという感じがしてきた。
村も家族も企業も教団も国も学問共同体も趣味グループも一応は多分包括して議論ができるはず。
ある社会の中枢をなす集団原理の転換をもって時代の変化(中世から近世へ、近世から近代へ、近代から現代へ)を論じるというやり方があり得るし、これはあまり試みられていない。
「権力」や「主体」を論じるという姿勢はやはり近代的な集団原理から他の集団原理を評価しようというものだろう。
「祖母の家で「ハクション!」と派手なクシャミをすると、誰かが「で、御座りたてまつり?」と聞いてくる。クシャミをした側はそれに対し「候(そうろう)」と答えなければいけない。
未だに親戚の間では爆笑の内輪ネタだが、祖母の幼少期から存在するらしく、少なくとも70年の歴史がある。
もしかすると、古文書レベルの内輪ネタかもしれないので、絶やさず受け継いでいこうと使命感に燃えている。」
https://omocoro.jp/bros/kiji/382685/
なんそれやば笑。武家の末裔かなんかなんかね
『ユートロニカのこちら側』
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013679/
アメリカを舞台にしたユートピアorディストピア小説。あらゆる情報をAIに管理させることで安全に暮らす、というのは自由なのか不自由なのか。企業が主導してそういう実験都市が成立し、広がっていくというわりと普通にありそうな話。ディストピア小説だとは簡単には言い切れない。全然そのなかで生きていけそうな感じもするんだよな。
五章は日本出身の人物が主人公で、祖父(左翼活動家的)の話が出てきたりする。アメリカの半外部から「自由/不自由」に関する問いかけが一番鋭く提示される形になっていて、そこも面白いなと思う。
この問題についてはたしかに、戦後の日本の思想と対峙させる必要がある。少なくとも僕たちにとっては。別に思想史がどうとかではなく、情報管理を受け入れるかどうかという論点で祖父たちの世代と強く対立しそうだという比較的身近な意味で。