「要するに、プラットフォームの強すぎる力というのは、人間を恐ろしいほど低コストにほんの少しでも世界に関与させる力、正確にはそのことを可視化して、実感させる力です。」
https://note.com/wakusei2nduno/n/n26fcd18b8923
うむ
集団を論じうる手法が近世史研究ではかなり成熟してきており、その点ではいまこの時代に歴史学に携わることが出来て非常に幸いだという感じもある。
少し前ならもうちょっと苦労した気がする。
これは、この世界にくる前には全然知らなかった。
https://juggling-mstdn.net/@jehok/113554823388173281
先日のポストは、同時代の共同体的で極めて具体的な「集団」の問題(実証的な歴史学のレベル)と、時代超越的で抽象的な「集団」の問題(ある分野をつきつめたときに時代を超えて対話が可能になるような問題、ある文化によって触れうる真理の問題、文化特有の文脈と語彙のレベル)との擦り合わせをいつかしたいということ。
いつ明晰に論じられるようになるだろうか。
※あんまり論文体の文章を考えるのには向いていないな。やっぱりTwitter的なフォーマット(UI?)は「気持ち」を書いて整理するのに最適な感じがする。思いつきは書きやすいけど、考えを整理して決定版的にキレイにまとめる作業には向いてない。そういう決定版なんて不要だ、ということに千葉雅也的にはなるんだろうか。
しかし、そのような視角では、思想家や学者が実際にどのような社会で生きていたかがはっきりしない(ここは全然うまく書けてない)。※思想と社会の関係の問題を、思想の流通する場・メディアに着目して解決しようとした。別の方法の模索をしたい。
問題は、思想家・学者という個人と社会とを一足飛びに結びつけて論じようとする構えにある。そうではなく、中間団体としての社会集団に注目すべきではないか。それぞれの個人が集団にどのように包摂されているのか、そしてその集団が他の集団とどのような関係を有しているのか。
「第一義的」という表現について少し調べたら面白いのをみつけてしまい、時間をロスしてしまった
http://obiekt.seesaa.net/article/97274543.html
「文化史」という分野は、不当に「国民」とか「国家」に結びつけられて論じられてきたという過去があり、これは明確に批判すべきであると思っている(まだ明確に尾を引いている。最近の近世の囲碁の研究は碁打ちの活動が幕府政治史上での意義だった。政治史に結びつければ意義がある、あるいは結びつけなければ意義が無いというようなくだらない感覚がある)。
簒奪された「文化」は各分野によって取り返されるべきである。それが普遍性の問題を論じる意味。
これは同時に、「文化」なるものが、少なくとも歴史学においてはずっと政治化され続けてきたという問題であって、最近の東さんが言っているような文化と政治の区別の問題を歴史学上で扱うものでもある。
ブッダは、初期仏教について知れば知るほど「精神の純度」が高い感じがする。神とか救済とか言わないし、対人の姿勢が常に水平的。
(あんまり日本の思想、思想家にそれを感じられることはない)