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もちろん、結局週刊誌にすぎないなぁという研究はもちろん沢山ある。
事実だけが重要だとは思わないけど、細かな事実だけが持っている質感というのもあるよねという話。

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そうだなと思う部分もありつつ、そうとも言い切れないよなと思う部分も結構ある。
構造を捉える際に細部の肌感覚の方が大事なことも多いと思う。そういう肌感覚をつかむためには結局細かな事実とか経緯を辿る必要が出てくる。

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千葉雅也の実践は音声言語と文字言語を融かそうとしているものなんじゃないかという雑な推論

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日本のお笑いはかなり強固に音声言語中心主義的で、東浩紀がお笑いとかを嫌いなのもなるほどなと思う。
ゲンロンという場は何なのか。文字言語中心主義的な語りの場ってあると思うけど、どこに特徴があるのかわからない。

「通俗的」と「音声言語中心主義的」の区別はつくのか。

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文学者を音声言語中心主義的に語るのは悪魔的だ。

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人間の社会はどこでもいつでも音声言語(パロール)中心主義だし、それに背を向けるのが文学なんだという気がするんだよな。
文字言語中心主義者は人間社会をどう生きたか。

和歌で人は分かるのか
会話で人は分かるのか
ツイートで人は分かるのか
インタビューで人は分かるのか
あるいは表情やら絵やら音楽やらダンスやらで人は分かるのか

受け手側の問題なのか、発信する時と発し手の問題なのか。

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音声言語と文字言語は体感では全く、本当に全く、異なっていて、同じ言語として扱われることには非常な違和感がある。
これはなんなのか。デリダを読んだら少しは分かるのか

「伝統芸能化」という批判の型について

生の声を歌にのせてしまうというのはある種のフィルターではある。
同じ様に、身体なり動作なりを脚本や演出にのせてしまうというフィルターがあるのもわからなくはない。
フィルターにのせてもなお残る生の味みたいなものを好むのは非常にわかる。そういう意味では不完全なフィルターこそが美しさの条件なのか。

結局のところ
野蛮と洗練の往復こそが文化

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明らかなフィルターを通さずに情報を削るというそぶりが嫌いなのかもしれない。
映画も演劇も写真もどう考えたって現実そのものがむき出しだと思うし、それをそのまま解釈したり楽しんだりするということはある種暴力的な感じがする。

文字なり絵なりのフィルターを通す方が表現として洗練されていると思う。別に洗練されているのがいいわけではないが。

この点で、声・歌声というコンテンツは今ほぼ生のままでしか流通していなくて、それがフィルターを獲得しつつあるというのはやはりひとつの革命なんじゃないかなあ。
一方で、ラジオとかの音質が悪い時代にはそれはそれで強めのフィルターがあったんだと思う。

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どれも現代のオタク的コンテンツなんだと思うけど、そういう現実から逃避するというか現実の複雑性をそのままでない形でなんとか引き受けようとする点ではやっぱり文学なんかと方向性が同じなんだと思う。
映画というのがやっぱりわからなくて、現実の複雑さを減らす方法がなんか文学やらオタク的諸々とぜんぜん違うんじゃないかという気がしていて馴染めない。その意味では演劇もわからない。写真もそう。
文学は解像度を下げる、あるいは情報の種類を減らすという形で現実と向き合うんじゃないかと思っていて、
映画や演劇は額縁をつくって空間的な視野を狭めるみたいな感じな気がしている。
質と量という違い。後者の捉え方が間違っているのか。

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人の顔を見たくないけど、人を見たい、表情を見たいみたいな欲求に応えるコンテンツがVtuberなんだと思っていて、

そういう意味では
歌声のない歌=ボーカロイド
顔のない表情=Vtuber
身体のないダンス=MMD・3DCGダンス
みたいなところがあって、どれもちゃんと連続的だと思うし、VtuberブームはVの本質を見失っているみたいな批判は完全に的外れだと思っている。
そしてどれも欲望する気持ちが最近よくわかるように思う。

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人の歌声を聞きたくないけど、「歌」を聞きたい、みたいな欲求とボカロは完全に合致する。
ボーカロイドというものに今まで出会ってなかったんだなぁと実感している。初音ミクはあくまで楽器で、楽器だけど何かしらを感じてしまうというそういうことだったのか。
ニコニコでのキャラとしての流通から入りすぎててわかっていなかった。

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ジャグリング丼

ジャグリングに興味ある人が集まって、わちゃわちゃできたらいいなって思って。