主観的に、主張が強い歴史学をやる(客観的な歴史叙述を目指さない)ということの意味とか感覚とかを初めて理解できている。
近世後期の政権周辺の学者たちは、まず第一に断罪すべき存在である、という気持ちが強い。
戦前の史学や戦後史学の叙述はこういう気持ちでなされているんだなぁ。
江戸は文化的だったけど、明治維新で田舎者がたくさん集まってきて、野蛮にもどったみたいな議論があるけど、それ以前から政治の中央はずっと野蛮なんだろうな。。。
林述斎とかなんか本来風流・道楽な役立たずだったというのに、松平定信とかいう正気じゃない人間に駆り出されて文化政策を担当させられてて、かわいそうとでもいうべきか。
近世後期の学者たちはみんな、風俗改良・教化とか称して、人々の身体性を暴力的に支配し変更し簒奪しようとしていて、まじで化物ばっかりでヤバすぎるっていう気持ちに最近なってきた。
近世初期はまだ学者はそこまで傲慢ではない。
https://www.youtube.com/watch?v=kff_DXor7jc
まっすぐなポップソングが本当に重要な意味を持つ時代。歌詞がすごくまっとうで良い。。。
体の動きは圧倒的に個人的なもので、誰かに影響を受けることも、与えることもできるけど、むりやりに意図を捻じ曲げてしまったりはなかなかできないんじゃないか。
つまり、動作は言葉と違って「簒奪」することが難しいんじゃないか。対話も難しい。瞬間瞬間、個を崩壊させなければ、変容がそもそもできない。
そこに勝敗なんてあるわけねえんだよなぁ。
しかし音にも体にも道具にも時代につれての変化がある。ただし本質も良い/悪いもない。
単に音と体と物がある。それは文化なのか、って言ったらやっぱり文化ではあるんだろう。
技術もアートもエンタメもジャグリングの本質も、それの前ではどうでもよいっちゃどうでもよいんだよなぁ
人生ふざけた寄り道ばっかりだ。楽しいが。
10代のころに、一番これに近い!と思ったのが康本雅子で、それがコンテンポラリーダンスだとかいって紹介されてるのが悪い。いとうせいこうのせい。
「私は、大道芸フェスティバルは文化センターのある町でしかやりません。高円寺の場合は、座・高円寺という劇場があってそこの館長の斎藤憐さんが三軒茶屋の大道芸を見て、ウチでもやってください、というので引き受けました。座・高円寺がなかったら、私はいくら頼まれてもやりませんでした。
つまり、アートの流出口が必要なんです。基本的には<ここ(劇場内)>の情報が<こっち(町中)>へ流れ出て、また劇場に還っていくという構図だと考えています。私が言っている大道芸は、例えば劇場、テント、スタジオなど、さまざまな芸術表現が行われている場所で行われるべきものを外で行うということなので。ですから、劇場に収まりきれないものは別として、還っていくべき劇場がある町でしかやりません。」
「年表を作るのは本当に地雷で、作った時点で全人類が敵になり延々と突っ込み入れられるみたいな雰囲気がある。」
https://cocolog-nifty.hatenablog.com/entry/2019/04/23/122400