情報量カットの手法としてのメタバースについて。そう。こういうことだと思う。
https://note.com/lancia_misumi/n/nf282c6cc49f2
そうだなと思う部分もありつつ、そうとも言い切れないよなと思う部分も結構ある。
構造を捉える際に細部の肌感覚の方が大事なことも多いと思う。そういう肌感覚をつかむためには結局細かな事実とか経緯を辿る必要が出てくる。
生の声を歌にのせてしまうというのはある種のフィルターではある。
同じ様に、身体なり動作なりを脚本や演出にのせてしまうというフィルターがあるのもわからなくはない。
フィルターにのせてもなお残る生の味みたいなものを好むのは非常にわかる。そういう意味では不完全なフィルターこそが美しさの条件なのか。
結局のところ
野蛮と洗練の往復こそが文化
明らかなフィルターを通さずに情報を削るというそぶりが嫌いなのかもしれない。
映画も演劇も写真もどう考えたって現実そのものがむき出しだと思うし、それをそのまま解釈したり楽しんだりするということはある種暴力的な感じがする。
文字なり絵なりのフィルターを通す方が表現として洗練されていると思う。別に洗練されているのがいいわけではないが。
この点で、声・歌声というコンテンツは今ほぼ生のままでしか流通していなくて、それがフィルターを獲得しつつあるというのはやはりひとつの革命なんじゃないかなあ。
一方で、ラジオとかの音質が悪い時代にはそれはそれで強めのフィルターがあったんだと思う。
どれも現代のオタク的コンテンツなんだと思うけど、そういう現実から逃避するというか現実の複雑性をそのままでない形でなんとか引き受けようとする点ではやっぱり文学なんかと方向性が同じなんだと思う。
映画というのがやっぱりわからなくて、現実の複雑さを減らす方法がなんか文学やらオタク的諸々とぜんぜん違うんじゃないかという気がしていて馴染めない。その意味では演劇もわからない。写真もそう。
文学は解像度を下げる、あるいは情報の種類を減らすという形で現実と向き合うんじゃないかと思っていて、
映画や演劇は額縁をつくって空間的な視野を狭めるみたいな感じな気がしている。
質と量という違い。後者の捉え方が間違っているのか。