「アーティストの人は、どうしてもファンをドメスティックに囲い込むことになるわけじゃないですか。
論考で女性アイドル産業に少し言及していますが、全くパブリックでないことを、何も気に留めてないのが日本のアイドル産業だと感じます。でも、握手券をつけるつけないみたいなものと、椎名林檎の囲い込み方は大差ないように思う。彼女のオリンピックへの参加のニュースを聞いたとき、真っ先に「ドメスティック」を感じました。一緒くたにしてはいけないけれども、椎名林檎のやっていることもパブリックに開かれていない。」
「大衆文化、ポップカルチャーの面白さは、様々な欲望が交差するところにあるし、そこで「パブリック」は生まれると思うんです。単なる大衆の声の代弁ではない。今はパブリックでないドメスティックな歌詞で、我々大衆を映してしまっている。その変化が、歌詞における「写真を撮る者」の消滅に表れている。」
今、日本のカルチャーで「公」と「私」を語ろうと思うとこういう議論になるのか。
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/sachi-nishimura/13905
ボカロ文脈、米津玄師とかは徹底的に個人的で集団化を扇動したりしない安心感(?)というか極端さがあるけど、じんとかはわりと安易に集団へいってしまいそうな普通さ(?)があって、こわいよな。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80819
攻撃的すぎる批評で笑う。
「「うっせぇわ」が描いているのは、大人への断念であり、実際には語られることのない本音である。言うなれば、飲み会で年長者と談笑した翌日に辞表を出す若者の内面だ。事が起こったときにはそれは終わっている。コミュニケーションは必要とされない。」