JJFCSの「オリジナティ」→「希少性」の変化もやはり示唆的な論点だよな。
舞台上の演技だけで判断しやすいように、開発者かどうか等が全く問われない「希少性」という表現になったとはいえ、「珍しさ」とは結局舞台の外側の状況を含みこまずには評価が不可能。
珍しいから良い、なんてコンセプチュアル・アートみたいな前衛の発想である。普通スポーツにもそんな謎の基準存在しないだろう。
「データベース消費的」というとちょっとサブカル批評に擦り寄りすぎなんだが、近いものではあると思う。
こういうジャグラーの見方を採用した時には、道具は実は演者以上に主体として眼差される、ということは、ある?ない?どうかな。微妙。
思うに、ジャグラーはある演技を見る時に、その演技だけではなく、今まで観てきたジャグリング(道具の扱い方)のデータベースを参照しながら、観ている。
そういう見方は、ここで福井くんが言うような「演者の身体に従属」という見方とは、実は別のものとなっているんじゃないか。
https://www.fukuihirotaka.com/otomodama
おともだまに際しての福井くんのテキスト「ジャグリングに向けてのメモ 」。
「ジャグリングのための物体であっても、日常的な物体であっても、それらは演者の身体に従属し、パフォーマンスに奉仕する道具として振る舞うことしかない。この日見た演目のほとんどがモノを使ったダンスや演劇にしか見えなかったのは、人とモノとの関わりが劇場でよく見るそれと同じだったからだ。アクターは常に一人しかいなかった。」
https://twitter.com/shukyumagazine/status/1352204399909605376
SHUKYUとチェルフィッチュ、つながっているのか。
https://kinarino.jp/interviews
「キナリノ」インタビュー記事。面白い人がたくさんいそう。
曽我大穂、CINEMA dub MONKSは音楽的にかなり評価が高いらしく(バルセロナで高評価らしくまさに「世界音楽」的)、ウィキペディアにもわりと詳しい記事があるが、仕立て屋のサーカスには言及がない。