「文化史」という分野は、不当に「国民」とか「国家」に結びつけられて論じられてきたという過去があり、これは明確に批判すべきであると思っている(まだ明確に尾を引いている。最近の近世の囲碁の研究は碁打ちの活動が幕府政治史上での意義だった。政治史に結びつければ意義がある、あるいは結びつけなければ意義が無いというようなくだらない感覚がある)。
簒奪された「文化」は各分野によって取り返されるべきである。それが普遍性の問題を論じる意味。
これは同時に、「文化」なるものが、少なくとも歴史学においてはずっと政治化され続けてきたという問題であって、最近の東さんが言っているような文化と政治の区別の問題を歴史学上で扱うものでもある。
ブッダは、初期仏教について知れば知るほど「精神の純度」が高い感じがする。神とか救済とか言わないし、対人の姿勢が常に水平的。
(あんまり日本の思想、思想家にそれを感じられることはない)
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000010.000136183.html
落合陽一禰宜
今までで一番面白いかも
あまりにもわかりやすく「精神の純度に憧れ」たために博士課程に行って結局純度が得られない話でびっくりする。森博嗣もちゃんとでてくる。すごいな。
「大学院でのヒエラルキーは知的好奇心の大きさで決まる」のもすごいな。東大は知的魔境だ。
https://note.com/sakurachan_kyo/n/ncd7773e9faeb