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ピントクルはジャグリングに「精神の純度」を求めていた、とそう言って良いようにも思うな、やっぱり。意外とちゃんとそこが魅力になっていたんだろうとも思うし、あれに代わるものがあるかというと無いんじゃないか。

「精神の純度」っていうか「純度」だな、精神が余分な気もしてきた?いや、必要なのか?

「文化史」という分野は、不当に「国民」とか「国家」に結びつけられて論じられてきたという過去があり、これは明確に批判すべきであると思っている(まだ明確に尾を引いている。最近の近世の囲碁の研究は碁打ちの活動が幕府政治史上での意義だった。政治史に結びつければ意義がある、あるいは結びつけなければ意義が無いというようなくだらない感覚がある)。

簒奪された「文化」は各分野によって取り返されるべきである。それが普遍性の問題を論じる意味。

これは同時に、「文化」なるものが、少なくとも歴史学においてはずっと政治化され続けてきたという問題であって、最近の東さんが言っているような文化と政治の区別の問題を歴史学上で扱うものでもある。

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とりあえず詰将棋を題材に論じたいという構想だけはある。

一応、長期的にみての本丸はジャグリングにある。

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「新しい文化史の構想」みたいな論文を書いて、ある文化における普遍性の問題(その文化によって触れうる世界の真理の問題)と歴史性の問題(その文化の来歴や、社会的な位置付け、担い手の問題)をうまく接合させて論じるということをいつかしたい。
おそらく日本においてそういう作業を実は担っていたのが「批評」という分野であったのではないかと思っている。歴史学の論文をハッキングして、批評を復活させるということが少なくとも可能ではある気がしている(自分に能力的に可能かは不明)。

ブッダは、初期仏教について知れば知るほど「精神の純度」が高い感じがする。神とか救済とか言わないし、対人の姿勢が常に水平的。
(あんまり日本の思想、思想家にそれを感じられることはない)

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世界とは何であるか、を純粋に追求し、それ以外の尺度にこだわらない精神の共同体。
(個人的には「共同体」という点ははずせない。森博嗣は多分あんまりそれを必要とはしていない)

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ふと思ったが、僕は「精神の純度」を初期仏教にみているのかも。

ずっと、増谷文雄の『仏教の思想 1 知恵と慈悲』という本での初期仏教での「僧」集団のありかたに一種の理想をみているが、その感覚は「精神の純度」とかいうフワッとした何かともしかしたら近いのかも。

大学の世界とか、現在の学問の世界にそういうものが無いことを前提にしたうえで、特権とか利権とかがない状態での学問の世界にある種の「精神の純度」があるかもしれないと思って、今の研究をはじめている可能性もある。

あるいは、趣味の世界、アマチュアの世界にこそ、そういう「精神の純度」があると思っているか。

雑誌編集でWordかなりいじったのは、意外とめちゃくちゃ役に立ってる。Wordでのストレスは少なめ。

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あと一週間で博論提出だがあんまり切迫感がない。こんなもんだろうか。

クイズに関しては基本的にエンタメに振っていて、他に大して選択肢が無いという重要な条件もあるな

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熱量のある人はいろんな時期にいろんな場所にいたけど、意外と共振しているタイミングがない
そう考えると、コロナ期やその後ってのは連携がしやすいタイミングだった/であるのかも

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ジャグリングの場合、業界の盛り上がりのタイミングと、東大ジャグラーの熱量が高かったタイミングとがズレていたっていうのがあるのかもな

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ゲンロン・QuizKnockを中心に、クイズの世界の盛り上がりはちゃんと複数の業界に人材を送り出して、かつネットワークをつくっているという感じがある。

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だめだ全然頭がはたらかない。

あまりにもわかりやすく「精神の純度に憧れ」たために博士課程に行って結局純度が得られない話でびっくりする。森博嗣もちゃんとでてくる。すごいな。
「大学院でのヒエラルキーは知的好奇心の大きさで決まる」のもすごいな。東大は知的魔境だ。
note.com/sakurachan_kyo/n/ncd7

juggling-mstdn.net/@jehok/1132

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ジャグリング丼

ジャグリングに興味ある人が集まって、わちゃわちゃできたらいいなって思って。