京都公演、楽しみだなぁー。
木か金だなー。
interior2020 | 福井裕孝 https://www.fukuihirotaka.com/interior2020
@mimizu123 そこを避けると密な甘いものという制限しか残らなくなる。
新しい関係を構築するうえで生じざるを得ない暴力に近いもの。それをすかすのではなく、うけいれ、乗り越える術を考え、実践していきたい。
ジャグリングの暴力性をなんとか乗り越えたい。
例えば、工芸品の箸を魅力的に見せるためにジャグリング、ジャグリング的手法を使うとして。
ジャグリングは既存の物の扱い方を一旦無にして、その形に直接向き合うことができるが、だからこそ、既存の価値観とぶつかりやすい。ぶつかることが問題というか、そちらに印象がとられすぎて、魅力を発見しづらくなってしまう。例えば、箸を足で使うとか。
物を魅力的にみせるっていうシンプルな方法が確立すればジャグリングは一気に広がる。
お笑いは暴力性を突破している。
例えば漫才はシンプルに人を叩いたり、否定をすることを通して、人、あるいは人と人の関係を魅力的に魅せる。
もちろん、漫才での暴力は抜け殻のようなもので、舞台上だけの虚構である。
その虚構性を成り立たせているのが舞台だったり、テレビというメディアや場であろうか。
ただ、物と人の関係をみるジャグリングでその虚構は成立するのだろうか?
例えば、本を破ることご舞台上で行われていたとしてその暴力性がノイズにならないであろうか?
たぶんそこを経由しないと人を傷つけない笑い、物をつけないジャグリングは成立しない。
@tanigu12 良か良か!!
@miyamonz 僕もotomodama届いた!!
エビのような、とにかく下手なバスケットボール選手
降格塁
#帰ってこない
そういえば、思い出のジャグリングの可能性を最近考えていた。
ローカライズとしてのジャグリング、「地方とジャグリング」といえば、大道芸祭が思い浮かぶ。
そこで芸を見に来る人は観客であり、もっといえば、観光客である。
観光客はその手軽さが良い。お金さえ払えば、パッと寄って、楽しかったとみて、帰り、日常にそのまま戻ることができる。
ただ、あまりに度がすぎると消費するだけになる。その「地方」に行く意味も薄れる。人と人も繋がらない。というより、表層で「繋がった」気になってしまう。
ジャグリングを通じて、その地域と人を繋げる、別のやり方を考える時、「思い出のジャグリング」がヒントになるかもしれない。
観客ではなく、友達としてジャグリングを見る。
その時、先の「甘い、冷たい」を考えることは役立つ。
友達を見るとは、人の表層的な綺麗さだけを見ることではなく、もっとドロドロとした内側も垣間見ることである。
物との多様な関係を探求する。
それはもちろん、甘い関係だけには止まらない。
ちょっと、うっとなって、勇気がいるが、友達としてジャグリングを見ることの追求も面白いと思う。
昨日のツイキャスより2
思い出をのせてしまうとジャグリングとしてフェアじゃない気持ちになる。それ、非常にわかる。
上の甘さの問題にも近い。
他の理由として、ジャグリングというと、道具のあの抽象度の高さとか。
あるいは、ジャグリングを見るという時、友達じゃなくて、観客としてみることが多い(そして、それが強固になった「観客」として見るべきという観念がある)ことも理由の一つに感じる。
ジャグリングを見ることの普遍と固有の問題的な。
ジャグリングを通して、物との関係を考えてみる。実験。
その辺にある物を、社会的なイメージや質感で甘いと冷たいに分けてみる。
むぎはら帽子は甘い。パソコンは冷たい。
ノスタルジーがどこまであるか、時代性をかんじないか。
団扇は甘い。でも、風車はちょうどいい。
蛍光灯、枕、扇風機、扉はどうか。
基本的に、ジャグリングは甘い関係を物と結ぶ。だから、物が甘いものを使われると胃もたれする。
だから、ちょうど良い冷たさをもった物を扱うか。あるいは、甘いものと甘くはない別の関係を探っていくのか。
Juggling Unit ピントクル代表。京都でジャグリングのオムニバス公演「秘密基地」を運営したり、作品をつくったりするひとです。