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2月
彼女が半月強ほど帰国。東京の研究会で報告(2/3)して、おじさんに非論理的な詰め方をされ非常に不快。批判自体は支離滅裂だったが、内容が十分に詰めきれていなかった点はたしかだったので、報告内容はお蔵入り(1月はわりとこの準備で忙殺されていた)。香川でイベントに参加、ほっしぃと会うなど。直後に研究と関係のない用事があったのはわりと良かった気がする。なんやかやでJUGGZINEのnoteを落としていて申し訳ない。

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多少は一年の振り返りでもしたい。
1月
年度末までは教務補佐員で研究室勤務なので、四日から勤務。やまかみさんの練習会開始がたしかこのころ?桂に練習にいっている。年末あたりから有栖川有栖にちょっとハマって読んでいた。

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年々時間の感覚がなくなっていってよろしくない。
今年は短かったような気もするが、六月とかははるか昔という感じもする。日記などをつけないと区切りははっきりしなくてよくないのかもしれない。

「要するに、プラットフォームの強すぎる力というのは、人間を恐ろしいほど低コストにほんの少しでも世界に関与させる力、正確にはそのことを可視化して、実感させる力です。」
note.com/wakusei2nduno/n/n26fc
うむ

自分がかわいいだけだろっていう人はこだわってるポイントはよくわかるが、まぁ。
こだわりばっかり強くて他との対話ができていないタイプはわりと多い。読解に難があって面倒ではある。

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研究にもある種の異常な偏執が必要。
めちゃくちゃ頭の切れる、論理的な論文を書いてる人でもあんまりこだわりを感じられないタイプの研究者は結局研究史上大きな足跡を残せない。一回りくらい上の研究者たちはどうもみんなどこにこだわりがあるのかよくわからない。

集団を論じうる手法が近世史研究ではかなり成熟してきており、その点ではいまこの時代に歴史学に携わることが出来て非常に幸いだという感じもある。
少し前ならもうちょっと苦労した気がする。

これは、この世界にくる前には全然知らなかった。

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juggling-mstdn.net/@jehok/1135

先日のポストは、同時代の共同体的で極めて具体的な「集団」の問題(実証的な歴史学のレベル)と、時代超越的で抽象的な「集団」の問題(ある分野をつきつめたときに時代を超えて対話が可能になるような問題、ある文化によって触れうる真理の問題、文化特有の文脈と語彙のレベル)との擦り合わせをいつかしたいということ。
いつ明晰に論じられるようになるだろうか。

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結局根っこのところで「集団」に関心がある、という点は変わっておらず、このことをどう研究史との関係の中で論理的に打ち出すか、で迷い続けてきた時間だったのだという感じがある。

※あんまり論文体の文章を考えるのには向いていないな。やっぱりTwitter的なフォーマット(UI?)は「気持ち」を書いて整理するのに最適な感じがする。思いつきは書きやすいけど、考えを整理して決定版的にキレイにまとめる作業には向いてない。そういう決定版なんて不要だ、ということに千葉雅也的にはなるんだろうか。

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しかし、そのような視角では、思想家や学者が実際にどのような社会で生きていたかがはっきりしない(ここは全然うまく書けてない)。※思想と社会の関係の問題を、思想の流通する場・メディアに着目して解決しようとした。別の方法の模索をしたい。

問題は、思想家・学者という個人と社会とを一足飛びに結びつけて論じようとする構えにある。そうではなく、中間団体としての社会集団に注目すべきではないか。それぞれの個人が集団にどのように包摂されているのか、そしてその集団が他の集団とどのような関係を有しているのか。

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序論考え中

これまでの思想史の研究でも、思想と社会、あるいは思想の担い手と社会の関係は問われてきた。その問いの中で、教育や書物などといった思想を媒介するメディアが注目され、一定の成果があがってきた。

「第一義的」という表現について少し調べたら面白いのをみつけてしまい、時間をロスしてしまった
obiekt.seesaa.net/article/9727

ピントクルはジャグリングに「精神の純度」を求めていた、とそう言って良いようにも思うな、やっぱり。意外とちゃんとそこが魅力になっていたんだろうとも思うし、あれに代わるものがあるかというと無いんじゃないか。

「精神の純度」っていうか「純度」だな、精神が余分な気もしてきた?いや、必要なのか?

「文化史」という分野は、不当に「国民」とか「国家」に結びつけられて論じられてきたという過去があり、これは明確に批判すべきであると思っている(まだ明確に尾を引いている。最近の近世の囲碁の研究は碁打ちの活動が幕府政治史上での意義だった。政治史に結びつければ意義がある、あるいは結びつけなければ意義が無いというようなくだらない感覚がある)。

簒奪された「文化」は各分野によって取り返されるべきである。それが普遍性の問題を論じる意味。

これは同時に、「文化」なるものが、少なくとも歴史学においてはずっと政治化され続けてきたという問題であって、最近の東さんが言っているような文化と政治の区別の問題を歴史学上で扱うものでもある。

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ジャグリング丼

ジャグリングに興味ある人が集まって、わちゃわちゃできたらいいなって思って。