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読書SNSの良さ、読者しかいないことにあるんだな。作者もこの地平に降り立つためには読者とならなくてはならない。

年末年始のくせに色々転換点すぎる。やっかい。

「ジャグリングのジャンルを分かつのは、実は道具ではなく技術である」、というのは貫井作品から今回実感できた素晴らしい洞察。

シンプル上手さが好きな人からすると、上の四つが全部一緒に見えるらしい。マジかよ。いや、今まで自分も整理できてなかったけれども。

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シンプルな上手さ志向という派閥もあって、これはまた四つとは全く別のもの(だがすべてを圧倒する強度と説得力がある)。
ウェスはとにかく、ほぼどこから見ても魅力がある。やばい。

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技術/舞台(サーカス)/道具/身体の四つの軸があって、舞台の熱気はこれらがまぜこぜになってカオスをつくっていたんだな。
社会人ナイトとかイアコットとかは、エンタメ志向を表向き装いつつ技術をやっていた。僕も心情的にはこれが好きだったな。

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僕は一番出来損ないな感じがある。ピントクルはやっぱり団体でそこにいたから強度があるんだな。

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ジェイと渡邉の間で、、、って考えていくと、やっぱり丹くんとか宮田さんとか小林さんとか目黒さんもか全然別世界なんだよな。ハチローさんも小辻さんも。
そこに小さな(小さすぎる)シーン内シーンがある。渡邉尚自身も外側にいる。

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道具も身体も本当はそれぞれみんな異なっているという、質の問題の認識がここで重要になってくる、と思うのだが、今一歩解決策がみえない

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JJFや技術革新の世界は確かに面白かったし、交流も濃密ではあったが、しかし価値基準が単線的すぎた。うまい/へた、新しい/古いという基準が強すぎる。
本当の魅力は、新しい技術の登場ではなく、技術の交流それ自体であると主張していきたい。交流促進の方法として新たな技術の登場というのはとても分かりやすいのだが、単純に新しいものは出てきづらいのでジリ貧になってしまう。

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ピントクルからする10年代後半の総括です。

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道具が無限に多様であること、身体もまた無限に多様であること、この二つが舞台という経験を通じた副産物的な成果物なんだと思う。
その無限を踏まえることではじめて、技術という有限な多様性が真の意味をもつ。

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舞台という形式はことジャグリングにおいては、動画を通じた濃密な交流(時間と労力をかけて技を真似するという交流)を恐ろしく薄く希釈(時間的にも労力的にも)してしまい、観客と演者という断絶をつくりだしてしまったという点で、ほとんどデメリットしか生んでいない可能性すらある。
同じ場所・時間を共有するのが濃密な交流だなんて錯誤も甚だしい。

ウェスと青木康明がどこまでいっても正しい。
しかし、舞台の熱気と、ジェイ・渡邉の衝撃と、村上翼の衝撃が入り混じってる10年代半ばは本気で半端ないな。

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動画を使って技を解析して真似をするという営みにこそジャグリング的コミュニケーションがある。そこにしかないまである。

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そこで改めて動画というものの力をちゃんと信じてやる必要がおそらくある。
技動画こそが本質。

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人は孤独でこそ「もの」と向き合えるのだとして、それを人に伝える方法は何か?という真っ当な疑問を先週突きつけられたんですが、その答えが、こういう本質ジャグリング的なコミュニケーションによる伝授ということになります。

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好きな人の物への関わり方を、自分の体で実践するの、なんだか官能的にすぎるな。

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ジャグリング丼

ジャグリングに興味ある人が集まって、わちゃわちゃできたらいいなって思って。